その当事者が選択できる状況にあるとなぜ言えるのか

非コミュは選択の結果である」id:ureliano:20081222:1229943152

しかし、そんなぼくでも分かることがある。それは、アスペルガー症候群というだけで、彼らを一括りにはできないということだ。彼らの中にも、いわゆるモテと非モテがいるだろう。彼らの中にも、コミュと非コミュがいるだろう。彼らも、けっして一様ではないということだ。

 「非コミュ」でひとくくりにしておられるのは、id:urelianoさんではないかとも思いますが、それはさておき。「非コミュ」の明確な定義が見当たらないので、ここでは「非コミュ」という状態を生活上困難を覚えるほどコミュニケーション障害をきたしてる状態としてみます。本人が非コミュであると主張するかはここでは問いません。違うというならばきちんと語の定義をお願いいたします。

 非コミュをそう定義したならば、少なくとも診断の降りる時点でのアスペルガー症候群非コミュ(そしてある程度は非モテ=恋愛に必要なコミュニケーションに困難を覚える状態)に含まれるとしていいのではないかと思います。なぜならば、障害の判断基準が「対人相互作用の障害」であり、それによって生活に支障を来たすほどの問題が起こってる場合にしか障害としてのアスペルガー症候群とされないからです。数学的に書くなら、「アスペルガー症候群非コミュ」と部分集合になります。

精神疾患の診断と統計のためのマニュアル第4版:DSM-4(アメリカ精神医学会作成)」より一部抜粋

A.以下のうち少なくとも2つにより示される対人的相互作用の質的な障害:

(1)目と目で見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、対人的相互反応を調整する多彩な非言語性行動の使用の著明な障害。

(2)発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗。

(3)楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例えば、他の人達に興味あるものを見せる、持って来る、指さす)を自発的に求めることの欠如。

(4)対人的または情緒的相互性の欠如。

 ちなみにアスペルガー症候群と同様知能が高い(IQ70以上)が、言語機能に幾分問題があるタイプの対人相互作用に障害がある自閉症の人を高機能自閉症とわけることもあります。知能の低い(IQ70未満)自閉症のひとたちと合わせて、自閉症スペクトラム(連続体)と呼ばれています。この自閉症スペクトラムに含まれる人は100人に1人程度いるとされています。小学校以降になると知能の低い自閉症養護学校などで出会う機会が少なくなると思いますが、id:urelianoさんが今まで会った人々がおおよそ5000人くらいだとすれば、その中にはそうした人が最大50人程度含まれていたはずです(あくまで仮定です)。小学校の頃自分かよそのクラスに奇妙な子がいませんでしたか?場の空気が読めなかったり対人距離感がおかしかったりする、奇妙な子が。
 知能の高い低い、言語機能の高い低いに関わりなく、自閉症スペクトラムの本質的な問題は「対人的相互作用の質的な障害」にあるとされています。

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アスペルガー症候群の人にも、コミュニケーション能力(と言われるもの)の高い人はいるはずだ。非言語コミュニケーションが苦手なら、それを前もってきちんと伝えられる人。そうして、面倒でもなるべく言語化して伝えてくれるよう周囲に頼み、トラブルを未然に防げる人。そういう人が、たぶんいるはずだ。

 実のところ非言語的コミュニケーション「だけ」の問題ではないのです。前回の記事では分量的にそれだけしか書きませんでしたが、他にもいろいろと質的に違うところがあるんです。以下に典型例が上がってるので、少し抜粋してみます。

自閉症について、自閉症スペクトラムとは

アスペルガーの言った自閉症とはどういう自閉症か?まず社会的に奇妙・不適切であるとアスペルガー自身が言っています。要するに、カナーの場合は情緒的接触が欠如しているということで心が通いにくいということでしたが、アスペルガーの場合、心が通いにくいというより非常に不適切あるいは奇妙な行動、常識がないような行動をとるということでした。例えばいろいろな例がありますが、ウイングという先生が挙げているのはある女の子のことです。生理の日になってくると、自分で「今日は生理日だ 」ということをみんなに言うのです。なぜかというと、英語では挨拶の時〝How are you?〟と必ず聞きます。普通〝I am fine thank you.〟と、答えてそれで話はパターン的に行くわけですが、〝How are you?〟と聞かれて、生理の日には〝I am fine.〟とは、言いたくないのですね。だから〝I am not fine.〟と言って、「私は生理日だ」と言ってしまう。〝 How are you?〟と聞くとそう言ってしまうので回りの人はビックリしてしまいます。そんなこと最初から言うのって本来はおかしいし、恥ずかしいわけです。

 あるいは、最近はてブでもとりあげられていた「【1498】曖昧な対人関係を理解できずトラブルを繰り返す部下は病気でしょうか」という記事で出てくる部下の方が非常に典型的な教科書に出てくるようなアスペルガータイプの方に見受けられます。未診断のようですが、対人トラブルから欝になったりと大変そうです。

【1498】曖昧な対人関係を理解できずトラブルを繰り返す部下は病気でしょうか

ある時は、私の昼食中に書類をみてほしいとAさんが来たのですが、まったく急ぎのものではないようだったので「急ぎで見ないといけない書類?」「いいえ」という会話を経て「今食事中だから後で」と断った(つもりだった)ところ、Aさんは「大丈夫です、食事中でも見られます」と言ってどんどん話を続けてしまったことがあります。私と一緒に食事をしていた人たちはクスクス笑っていましたが、本人はまったく気づきませんでした。ほんとうに些細なことではありますが、このような日常的な場面で相手の都合がわからないことがたびたび起こっています。

 先の記事で参照したように、「剖検研究の結果、自閉症の人たちに異変が見出されたのは、大脳辺縁系と関連する部位である。特に神経核扁桃体、古い皮質に属する海馬には全例で所見がみられ、それと関連する帯状回前部や視床下部(乳頭体など)にも高頻度に異変が発見された。」この部位は感情や情動を司っている部分でここに機能不全があると感情や情動の把握・発露に問題が生じます。自分自身についてもそうだし、他者の感情や情動の把握・理解が困難になります。上の例の少女は恥かしいという感情の把握がうまくできてないし、他の人がそう感じることも理解できてないように見えます。なお、もっと軽度な例は当然ありますし徐々に発達もすれば、感情そのものがないわけでもありません。ただ、身近な例では即時での把握は非常に苦手に見えます。上下関係や、こまごまとした人間の間の力関係、距離感なども把握できていないことが多いようです。

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あるいは、それでもコミュニケーションに齟齬が生じた場合には、自分のアスペルガー症候群に原因があったのだと気づける人がいるはずだ。相手が非言語コミュニケーションで何を伝えたいのかは分からないが、コミュニケーションが上手くいってないと分かった時点で、なぜ上手くいってないのかを自分なりに分析したり、また相手にそれを伝えたりすることができる人がいるはずだ。

 もちろん、苦しいために病院の門を叩いて幸いにして診断を受けることができ、ようやく原因がわかって薬を処方してもらって二次障害を克服し、適応しようとがんばった結果、ある程度成功しておられる方は多数おられます。先の記事で参照したように、訓練や代替処置(ひたすらパターンを覚える)で凌いでいたりします。「アスペルガーのための定型発達者研究」というあるアスペルガーの方のブログカテゴリでは、定型発達者(あるいは多数派、いわゆる普通の人々)を分析して対処法を考えられています。

定型発達者における「感想」のありようから

さて、不毛な対立を起こさないためのコツは上記から見えてくる。
◆何かについての感想を定型発達者と語るとき
1 「感覚的用語」を多用すること。
2 対立する感想はできるだけ言わない事。
◆何かについての感想についての記述を求められたとき
「感想」にこだわらず、「意見」や「見解」を書いてしまっても実質上問題はない。
また、「感覚的用語」が入っていると読む方は感想として理解してくれる。

 また、同記事のコメントにありますが、「kyotoハートネット」というブログのkyoto先生という臨床心理士の方は、発達障害者でありながら努力と学習で高いコミュニケーション力を身につけて、発達障害者支援の活動をされておられるそうです。

 ちなみに、この記事の前の記事「アスペルガー症候群者には『感想』というものがわからない…かも?」のコメントには、定型発達者を好きになったアスペルガーの少年の話が出てきており「非モテ」を考える場合に参考になるかもしれません。彼は、好きだという思いを率直に自分の言葉(とおそらくは非言語的情報)で語ることができなかった(人の言葉を引用してまどるっこしくしか表現できなかった)ために、好きな女性に受け入れてもらえていません。ちなみに、定型発達者である友人が説明して助言を求めているのですが、それに対する周りの反応ややりとりも興味深いです。

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そういう人たちは、自らのコミュニケーション能力(と言われるもの)について、どう思ってるのだろうか? やっぱり「自分は、コミュニケーション能力(と言われるもの)が低い」と思っているのだろうか? それとも、その逆に「自分は、コミュニケーション能力(と言われるもの)には自信がある」と思ってたりはしないのだろうか?

 ご本人に直接そういうことをお聞きしたことがないので、はっきり言ってわかりません。ただ、「発達障害が好き〜そう思うようになるまで20年かかった」という記事は多少ご参考になるかもしれません。

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非コミュというのも、これと似たところがあるのではないだろうか?

彼らは、何かを訴える必要があった。そのためには、何らかの問題を顕在化させる必要があった。そこで、不都合とは分かっていながらも、あえて非コミュであることを選択したのである。

もちろん、こればかりではないだろう。しかしいずれにしろ、彼らが非コミュにでいることの理由に、「非コミュでいた方が得策だ」という彼らの判断は、少なからずあるのである。

彼らは、コミュニケーション能力(と言われるもの)が低いことに不都合を感じながらも、総合的に見た時に、むしろ非コミュでいる方が都合が良いと判断したから、コミュニケーション能力(と言われるもの)を低いままにしているのだ。それは彼らの意志であり、選択なのである。

 いったい彼らに何の得があると言うのでしょう?彼らは生まれて以来ただあるがままにしてる(あるいは自分の制御できない要因で正常に発達できていない)だけなのに奇妙と捉えられてしまうのです。嫌がらせと取られることは頻発しますが、そんな意図は二次障害でもない限り本来的にはありません。kyoto先生の別の記事から引いてみましょう。

少しの思いやりで救われる〜発達障害の二次障害

さて、私が子どもの時に、私に起きている問題を、すべて子どもの私の責任にされたのが、前回の記事のようなことになったと思っています。

子どもの時に、ひょっとして私に様々な問題行動があったのかも知れません。今で言う発達問題の行動ですね。

でも、本当は、その状態で1番に困っていたのが子どもの私であったことに、どうして気付いてもらえなかったのでしょうか。

(中略:問題行動の具体例が記述されている)

さて、このような状態で困っていたのは、子どもの私なのです。

ちょっとした温かい優しい言葉や少しの支援で、私はかなり救われたと思います。

責められて私に起きたのは、人間不信だけです。今で言うところの二次障害ですね。

さて、どうしようもなく困っている子どもがいたら、子どもを責めるのではなく、助けてやって欲しいですね。

 前回の記事というのは、「発達障害の自己否定と自己肯定」という記事で、kyoto先生はなんと担任の先生から「カバ(=馬鹿という意味)」という侮蔑的なあだ名をつけられ、年がら年中ばか・ばかとまわりから呼ばれて続けたために強烈な自己否定感を抱かれ、「他人を妬んで社会を恨んでいて、自分も大嫌いだった」そうです。そこから前向きになられるのに20年かかられたわけです。

 なお、発達障害は大人になって治るというようなものではありません(多少発達するために緩和することはありますが年齢相応ではありません)から、ずっと原因に気がつかずに(障害を抱えたままの人もいます。そして、「大人の発達障害への支援の場所がほとんどない」にも書かれていますが、大人の発達障害者を支援する場は現在ほとんどありません。

 理解も助けも得られないまま疲れ果てて「もう死にたい」と言えば「意思が足りない」「それはあなたがそうあることを選んだからだ」と言われるとしたら、いったいどこに救いがあるんでしょうか?

 元増田の方がどうした原因でコミュニケーション能力が低いと言ってるのかはわかりかねますし、もしかすると器質的あるいは場合によっては外因的な問題があるわけでもなく、何か目的があってあるいは単に怠けているだけかもしれません。(それにしても、本気で欝の人だった場合、その人に向かって意思が足りないと言うのは、病状を悪化させかねないので避けるべきだと思いますが)

 しかし、それとは別に、(冒頭の定義的な意味で)非コミュと言われるであろう人の中に、

1.「コミュニケーション能力(と言われるもの)」とid:urelianoさんが曖昧な表現をされているところの能力、それを私は(一般の人にとって)コミュニケーションをとるために必要な機能群として捉えているわけですが、それのどこかが欠けていたり発達が遅れていたりして、非常に奇妙な行動(別に当人らにとっては奇異でもなんでもないんですが)を取ってしまう一群の人々というのは確かにいるということ、

2.そしてそれらの人が自分としては当たり前の行動でしかなくかつ周囲の認識も低いがために原因も分からない、つまり選択しようもない状況にいて途方に暮れていることもあるということ、

は認識しておいていただきたいし、本人の意思自体(仲良くなりたいという意思自体はあったりもする)や困惑にも関わらずその状態にあることを「意思が足りない」「それはあなたがそうあることを選んだからだ」と簡単には言っていただきたくはないのです。